地域貢献活動
【現代ビジネス研究所・研究助成金採択プロジェクト】燕三条地域の加工技術とグローバル優位性~産業集積を支えるものづくりのDNAを探る
【連載】燕三条地域の「ものづくりDNA」を探る~燕三条産業史を支える企業
第一回 「ものづくり」の視点から紐解く、燕三条産業の変遷[1]
昭和女子大学現代ビジネス研究所
研究員 根橋玲子
1.旧石器時代から始まる燕三条地域のものづくり
燕三条地域のものづくりの歴史は、約4万年前の旧石器時代の鋭利な石を使った刃物づくりから始まる。旧石器時代の遺跡として御淵上遺跡(三条)、有馬崎遺跡(燕、国上)、縄文時代では、上野原遺跡(三条)、長野遺跡(三条)、吉野屋遺跡[2](三条)、幕島遺跡(燕、渡部)などから刃物を始めとする多くの生活用品が出土している[3]。このうち上野原遺跡からは、石錘(魚をとる網用の重石)が発掘されており、また弥彦村井田丘陵に接する個人の敷地[4]からは、縄文土器と認定された「注口瓶[5]」一口が出土している。五十嵐川、信濃川が流れる肥沃な土地と、海と山が近い豊かな大自然の中で、狩猟や採集、そして漁労も行われており、さらに、当時からこの地で生活に根差した加工技術[6]が花開いていた。
2.城下町や寺町の繁栄と、中世からの金属加工技術の伝承
当地域では、中世(平安・鎌倉・室町期)の遺跡として、北小脇遺跡[7](平安時代、燕市)、天神堂城跡(燕市)、下町遺跡(三条市)が発見されているが、このうち下町遺跡では、鉄鍋などの鋳型を始め、鍛冶[8]や鋳造に関する遺物が多数出土している。下町遺跡周辺の三条大崎地区は、当時「大崎保」と呼ばれ、城下町として栄えていた。1382年には、大崎地区に七日市が開かれていた事が記録にあり、市場には能登半島の壺や中国製の銭も売られていたという。また同地区には、針座・蝋座・銅座があったとされ、金川・カネ小路の地名も残っていた[9]。
14世紀の南北朝時代には、鋳物師本座として、「大崎鋳物師」という職人集団が鉄器製造を行っていた。鋳造技術は、河内の国から来住した鋳物師が伝承したと言われており、三条に鋳物の一大産地が誕生した。当時、越後三本座周辺地域でも小鍛冶による製品作りが行われており、大崎鋳物師は、日本各地で、梵鐘や鉄鍋などの鋳造を行ったり、技術を伝承したりしたとされている。当時の鋳物師は梵鐘(南会津の禅宗の寺・法用寺)鰐口(1471銘・八幡宮)、鍋釜を鋳ただけでなく、鍬鎌を作る鍛冶も行っていたという。このように、特に古くから鍛冶職人が育成されてきた三条地域を中心に、金属加工の歴史は中世時代より1000年以上もの間、脈々と続いてきている。
3.逆境を耐え自然と共生するものづくり~江戸時代の三条商人と燕の農民と職人
近世、江戸時代の遺跡では、館屋敷遺跡(燕市)が出土している。徳川初期には三条領内にあった燕村は、当時より有数の米どころであり、信濃川流域の肥沃な集落であった。当時藩主であった稲垣重綱は検地などを行なって藩政を固めようとしたが、五十嵐川と信濃川氾濫による洪水災害により、稲作が立ち行かず農民は困窮していた。
これを救うため、1625年に、二代目代官の大谷清兵衛定利(出雲崎代官[10]と兼務)が来城し、1626年(寛永3 年)、出雲崎代官大谷清兵衛正次が主導して、江戸から和釘鍛冶を招いて農民に伝習させ、副業として奨励した。これが、燕地域の金属加工産業の基盤とされている。農村地域である燕地域では、和釘、錠前、鋸の目立てに用いるヤスリなど建築金物のほか、キセル、携帯用の筆記用具である矢立 (やたて) などが江戸から注文を受ける製品のほか、包丁、小刀、農具、大工道具などの農家の作業用具や日用品で使う打刃物も生産していた。
しかし、1631年(寛永8年)に突然三条城廃止となり、本城寺に寛永19年(1642年)に黒門[11]が移築された。稲垣氏は、慶安4年(1651年)三河国刈谷へ転封となり三条藩は消滅した。さらに1651年には三河国刈谷藩へ移されたため、三条藩は廃されて幕府領となった。これにより城下町だった三条は、確固たる後ろ盾がない単なる集落となり、藩領(村上藩・高崎藩・新発田藩・会津藩・池之端・三日市・桑名天領)は細分化されて統治された。
1660年頃には、三条鉄物渡世を中心にした商都三条が形成され、上町裏に13軒、西の鍛冶町に20余人の鍛冶屋があり、それぞれ鍛冶町を成していった[12]。また、周辺の農村開墾が進むにつれ、鍬・鎌などの農機具が製造され、1661年(寛文元年)の初めに会津から鋸の新製造が八十里越えをして伝わり、ノミやナタなどの製法が同じ会津から小須戸経由で三条に伝わってきた。さらに一ノ木戸方面もまた、本格的な鍛冶業が行われ、一鍛冶町をつくる。一ノ木戸村領主の村上藩も又、越後鉄物の産地をもって知られていたので、それは又当然の動きであった。
一方で、1681年~1683年(天和年間)燕村では、農家兼和釘鍛冶職人を中心に1000名を超える人口となり、新田開発用に農具(鎌・鍬)の需要が高まったため、これらの農具の生産が開始された。兼業農家であった鍛冶職人は、鍬や鋤なども農家の作業に使い勝手を良く改良し、その地の土壌に合った鋼の質や形状を使用したという。また刃物生産に必要なヤットコ等の道具についても兼業農家が生産しており、三条地区も高度な刃鍛冶技術を生かした金物を製造流通する問屋が数十軒存在し、若狭国小浜に並ぶ、金属加工の産業集積地となった。
また、1697年(元禄10 年)の江戸の大火をきっかけにして、三条にある金物問屋により、信濃川で舟により運ばれた燕の和釘が江戸へ流通していた。また、江戸の大火による需要増のため、同地で生産された和釘は関東に向けて盛んに出荷された。さらに、江戸城改修のために、燕町から江戸に、多くの鍛冶職人が出稼ぎに行った。
1735年~1741年(享保末年~元文年間)鎌・包丁・小刀・鋏、また、元禄初期に、弥彦山麓で間瀬銅山が発掘され、1764年〜1772年(明和年間)に銅の精錬工場が稼働した。この工場開発により、燕三条地域には大量の良質な丁銅が供給されたため、これまでの鉄鍛冶の経験を生かして、同地では銅鍛冶も始まった。また、当時より日本でも有数の金属加工集積地であった燕三条地域には、会津や仙台から銅器製造の職人が良質の丁銅を求めて来訪し、燕地域の職人への技術伝承が行われたという[13]。銅鍋や銅ヤカン、燗つけ鍋などが大量に製造され、日本各地に流通されることとなった。また、江戸で使われるキセル、矢立、花器なども、江戸より技術者が招聘されて、当地での製造が行われていった。
また、1781年~1789年(天明年間)に曲尺の生産が始まっている。この頃には、燕の他、一の木戸や田島、与板、月潟、白根などでも金属製品の加工が行われており、三条周辺地域の職人により製造された製品は、「三条金物」として三条商人により全国に販売された。また、当時は金物の他に、染物、足袋も販売していたという。五十嵐川、信濃川、日本海の海運を活用して京都や大阪に、また下関から瀬戸内海経由で四国に入る。関東へは信濃川で六日町に上り、三国峠を経て、上州倉賀野から利根川を下り、江戸に流通させた。
何度も戦火に焼かれ、洪水に流され、しかし不屈の精神で立ち上がってきた燕三条の人々は、こうした天災にもくじけず負けず、何度も立ち上がったという。その後、和釘のほか、打ち刃物(包丁・小刀・斧・マサカリ)、大工道具(ノミ・鉋・鋸)、農具(鎌・鍬・クワ)、その他の刃物(木鋏・鉈・包丁・切出し小刀等)が全国に出荷されていた。1854年には、同地域の鍛冶屋は54軒となり、金属加工産業が当地の重要産業[14]となった。
4.情勢変化が著しい明治時代を生き抜く~海外の政治・経済に翻弄される地場産業
明治以降になると、鉄道の普及や機械力の導入によって鍛冶職人は販路と生産量を伸ばし、鋸・鉈・鋏・ナイフ等などを中心にして日露戦争の軍需品としての注文も増え、鍛治職人も多いに潤ったという。また、明治後期には、和鉄や和鋼に変わって、洋鋼[15]が輸入されるようになり、やがて洋鉄、洋角鉄ばかりか、洋釘までも海外から輸入されるようになり、1883年(明治16年)三条にも入荷された。1894年(明治27 年)には、日本でも輸入洋鋼を使用した洋釘が大量に生産されるようになると、燕地域の和釘製造は立ち行かなくなったため、燕地域では、銅器鍛冶が中心となった。同 42 年頃になると、全国的不況とホーローやアルミ製容器の普及で、鍛冶職人らは苦境に追い込まれた。また、キセルは紙巻煙草へ、矢立は万年筆へ、銅はアルミへと、燕の産業は崩壊寸前であった。そのため、燕地域に於ける金属関連商品は、伝統産業品の需要減退から、鍋等の家庭用品 鋸・鎌等の農具・ヤスリ製へとシフトした。
そんな中、1911年(明治 44 年)4 月、燕の「捧 (ささげ) 商店」が、東京の貿易商から初めて、横浜の海軍向けに、真鍮を主な材料とした金属洋食器の注文を受け、燕町で初めて手造りの洋食器が生産された。これが「洋食器の町・燕」誕生のきっかけとなった。 また、当初は、第一次世界大戦によりドイツから輸入できなくなったイギリスからの受注がメインで、当時はほとんどが東南アジアやヨーロッパ向けの輸出貿易品であった。その後、ロシアからの大量受注があり、1916~1917年にかけて、ロシア向け輸出が活況となった。1915年に4万ダースだった生産量が、1918年には50万ダースまで伸び、こうした生産量の増大により、手加工だった製造の機械化も進み、洋食器が大量に機械生産されるようになった。
1919年(大正8年)、大戦が終息して忽ち不況となり倒産が続出し、1921年には燕金属工業組合が設立された。しかし当時進められた工場制手工業による生産は、飛躍的な品質改善と生産量のアップにつながった。しかし、1927年(昭和2年)、世界恐慌の影響で、銀行倒産が多発し、商工業とも沈滞した。その後、満州事変の勃発により、軍需産業の無制限拡充と平和民需品も大量に必要となり、一時期衰退気味だった金物製品が上昇した。燕では、家庭金物・利器工匠具・大工道具・農機具・工作機工場制工業へ移行し、手工業から動力機械による生産拡大が行われていた。
そんな折、1934年(昭和9年)に三条は全国で123番目に市制を施行し三条市となり、燕・三条両地区の産業はこの頃から分岐していく。
[1] 本稿は現代ビジネス研究所2018年度採択プロジェクトでの調査を基に執筆を行った。プロジェクトにご協力頂いた磯野教授、国際学科3年捧里桜さんに心よりお礼申し上げる。
[2] 本遺跡発掘は、参加学生の捧里桜さんの祖父、捧正夫氏の功績によるもので、捧氏が発掘した王冠型土器や土偶から、縄文時代の三条に中核のムラがあったことが分かっている。
[3] 信濃川火焔街道連携協議会及び三条考古学研究会では、三条市歴史民俗産業資料館にて、定期的に旧石器時代から古墳時代の出土品展示を行っている。
[4] 「夷塚遺跡」はかつて土器片が発見されていたが、開発により埋滅したという。
[5] 「注口瓶」は縄文時代を中心に、木の実や果実を発酵、醸造させる目的で造られていたとされ、日本全国の主に日本酒の産地で発掘されることが多い。
[6] 燕三条地域では、経塚山遺跡(弥生時代:三条市)、吉津川遺跡(古墳時代:三条市)、五千石遺跡(古墳時代:燕市)、三角田遺跡(奈良時代:燕市)等から、各時代に使用された生活用品の遺跡が多数発掘されている。
[7] 三条商鐵組合HP掲載、前三条信用金庫、さんしん地域経済研究所所長高井茂氏記事によれば、1994年3月の調査(三条市教育委員会遺跡調査事務所 田村浩司氏)では、平安時代(9世紀前半~10世紀前半)の遺跡で、鞴(ふいご)の羽口の破片、鉄滓(てっさい)、砥石などの鍛冶に関係する遺物や鉄製品などが出土したという。(下田 五十嵐神社 三条市歴史民俗産業資料館)
[8] 鍛冶が行われていた証拠として、同地からは鉄滓、鞴(ふいご)の羽口、鍛冶炉の破片等が多量に出土した穴が発掘され、専門家によりこの穴は、鉄を精錬した大鍛冶の廃滓場
と推定されている。
[9] 麻布谷にも、金ヶ入の地名が残されているが、古来の金属加工の集積地と地名の関係性があるという説がある。
[10] 出雲崎は当時北陸街道の宿場町として栄えており、出雲崎港は、北前船の寄港地で越後の米を運ぶ便利な港として、また御奉行船による佐渡金山の金銀の陸揚げ港として海の要所となっていた。また近隣の高田藩・長岡藩・新発田藩の力を抑えるに都合の良い場所であった。
[11] 三条城唯一の遺構とされる。
[12] 1665年の検地帳に鍛冶町の記載があるという。
[13] 『カトラリー検定公式テキスト なるほどカトラリー』日本金属洋食器工業組合 (2011)によれば、当時の技術から「1枚の銅板を鎚で叩いて継ぎ目なく作る燕の代表的工芸品、鎚起銅器であり、この技術が、明治末から発展した洋食器生産の礎」となったという。
[14] この頃から、三条鉄物渡世(金物商人)と燕鍛冶職人とが、分断されていったという。
[15] 洋鋼は和鉄と異なり、精錬工程を必要とせず生産効率が格段に高いため、使い勝手が良かったという。
(参考文献)
渡辺行一(1966)「三条の歴史」野島出版
荒澤茂市(1997)「 燕市産業の起源と変革」㈱荒澤製作所発行
日本金属洋食器工業組合 (2011)『カトラリー検定公式テキスト なるほどカトラリー』