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【現代ビジネス研究所・研究助成金採択プロジェクト】燕三条地域の加工技術とグローバル優位性~産業集積を支えるものづくりのDNAを探る

【連載】燕三条地域の「ものづくりDNA」を探る~燕三条産業史を支える企業

第二回 輸出型産業集積として繁栄した燕地域の産業史

 

 昭和女子大学現代ビジネス研究所

研究員 根橋玲子

 

1.貿易インバランス問題の狭間で生き抜いた「燕の洋食器産業」

1941年(昭和 16 年)12 月、第二次世界大戦突入により、多くの工場が軍需品生産工場に転換し、戦時中「敵性品」となった洋食器は製造禁止となり、洋食器の輸出は一時ストップした。当時海軍より、わずかではあるが洋食器の受注が継続したため、燕では農業の傍らで、細々と機械製造を行うことで、製造技術の継承が行われていた。しかし、その後は戦局厳しく、太平洋戦争への道を急ぎ、1945年(昭和20年)に敗戦を迎えた。終戦後、また、進駐した米軍によるカクテル用品の注文をきっかけに、洋食器の大量発注があり、それに対応するために燕周辺農家が再び兼業化し、地域グループの共同受注方式により、洋食器の生産が再開された。

一方で、1947年(昭和22年)8月頃に、民間管理貿易が制限つきで、海外の一部限定地域向けに再開されており、中南米その他の国へと漸次増加しながら少しずつ輸出が行われていた。燕地域は、業界団体を中心として、貿易再開までの対応策として、日本洋食器株式会社及び太平洋食器株式会社を設立し、燕洋食器工業組合輸出部を発足して、輸出にあたっての態勢づくりを行った。1949年(昭和24年)に貿易が再開されると、ステンレス製洋食器は海外から意外な好評を得て、順調に輸出実績が進展していた。当時、燕の洋食器の輸出額は新潟県全体の出荷額の1/4を占めるまでに成長していた。戦後は資源が乏しく、廉価なステンレス合金が主な材料であったが、燕地域における研磨技術により、高品質の洋食器製造が可能となり、主に米国の消費者に広く好評を博した。この時期、洋食器産地として「燕」の名前が世界に広まることとなった。

 

さらに、1950年(昭和25年)の朝鮮動乱の影響で、燕製品の輸出が急激に拡大し、地域の輸出比率は5割以上となった1955年頃には、燕全体での生産量は1000万ダースを超えており、その9割が輸出用であり、そのうち7割近くが米国向けとして出荷されていた。当時、コストの安く質の高い燕製品が、米国の洋食器市場を席巻していた。それを快く思わない米国内の洋食器製造業者の業界団体が、1959年(昭和34年)4月頃、政府に燕製品の輸入を制限するよう申し立てを行い、これは「対日金属洋食器輸入制限提訴問題」として、政府関係当局は輸出貿易管理令により、金属洋食器を承認品目に指定し、日米の外交上の問題摩擦にまで発展した。

こうした、米国の輸入制限に対する日本側の対策として、米国政府に対し、燕市長初め官民業界代表10名で「輸入制限反対陳情」を行うと、米国政府は1959年(昭和34年)10月から年間輸入数量を取り決めた関税割当制度を実施することを発表した。その後、米国政府は段階的に輸入制限を撤廃し、1967年(昭和42年)10月に 米国の関税割当制度が一旦廃止となった。1970年(昭和45年)9月に米国輸入制限が再度通告され、同年再度、輸入制限撤回交渉のため市長並びに業界代表10名が渡米した。

 

その翌年、1971年(昭和46年)8月、貿易収支が悪化していた米国は、防衛策として「ドルショック(ニクソンショック)」新経済政策を発表、金とドルとの交換停止を行うことで、ドル安傾向となったことに加え、10%の輸入課徴金徴収が決定し、米国に輸出する際のコストがかさむようになった。さらに、1973年のオイルショックで、物価高騰による原材料の入手が困難になり、日本の産業界全体が大きなダメージを受けた。1974年(昭和49年)には深刻な不況となり、実質成長率は0.2%と戦後最低となった。

その後、また段階的に輸入制限が解除され、1976年(昭和51年)9月には、2度目の米国関税割当制度廃止が決定された。翌年、再度1977年(昭和52年)12月に、米国洋食器製造業者が輸入制限提訴を行ったが、1978年(昭和53年)6月に、米国大統領裁定により貿易自由化が決定し、洋食器の輸出が行えることとなった。日本の景気は好転しないものの、洋食器業界は念願の輸入制限が廃止となり、やや活況に推移した。しかし、1985年9月のプラザ合意により、為替相場は変動制となり、対ドル円レートは急速な円高となった。燕の洋食器業界は、急激な円の変動によるコスト割れに対応できず、やがて輸出が立ち行かなくなり、欧米諸国を主な市場とする洋食器輸出の好況は終焉を迎えた。

 

一方、戦後物資不足の時代に、玉虎堂製作所を始めとした、いくつかの業者が金属ハウスウェアと呼ばれる厨房製品の生産を開始していた。鉄やアルミ材料から、ステンレス材料への切換えや、加工技術の改善改良、新商品開発などによって、生産規模が急速に拡大し、内外からの需要が旺盛となり業績進展の要因となった。1959年(昭和33年)に起きた米国からの「対日金属洋食器輸入制限提訴問題」が影響し、金属ハウスウェア業界への転業が相次ぎ、加速的に生産業者が増加した。その後、高度成長期を背景にした、日本の消費者のライフスタイルの変化や、家庭における食の多様化により、金属ハウスウェアの需要が増加し、ポットやピッチャー、ケトル、ボール、トレー、キッチンスプーン、お玉などの、主に家庭用キッチン製品の出荷が増加した。また、その市場を国内だけでなく、海外にも求め、積極的に販売開拓を展開した。金属ハウスウェア産業は、燕地域の新しい産業として、内外にその地位を高め、業界は大きく発展した。

 

2.顧客ニーズを重視し、ハウスウェア製品に活路を見出す~輸出型から内需型への転換

1965年(昭和39年)に燕地域の金属ハウスウェア製品出荷が25億円となり、通産大臣の認可を得て、全国組織の日本輸出キッチンツール工業組合(現在の日本金属ハウスウェアー工業組合)が設立された。その後、国内の大手システムキッチンメーカーや、大手外食チェーン向けの、業務用厨房製品にも活路を見出し、消費者向けの少量多品種製品から大量生産品、そして業務用のカスタマイズ製品や組み付け品など、あらゆるタイプの厨房製品が、燕地域で製造されるようになった。

金属ハウスウェア製造技術は、燕特有の伝統で継承された、江戸時代に始まった鎚起銅器製造の金工技法から発祥している。元禄初期の間瀬銅山が発掘、明和年間の銅の精錬工場が稼働により、銅鍛冶や銅器製造が行われており、これがハウスウェアの源泉といわれている。戦後は、アルミ製品やステンレス製品の普及により、大量生産品がほとんどであるが、現在は、この銅器製造の工法は、工芸美術品を製造する技術として伝承されている。

金属ハウスウェア業界は輸出最盛期の1960年代後半~1970年代前半まで、輸出依存度は50%前後であったが、金属洋食器の輸入制限問題もあり、また世界経済の変動や輸出相手国の情勢の変化により、受注生産の輸出は常に国際的に不安定の現況は止むを得ない実情であります。また、1970年代後半には、NIES諸国の輸出が年々進行し、1980年代には、円高によるコスト高で、海外市場での競争力が低下した。

 

このように、金属ハウスウェア業界は、輸出規制を含む国際貿易上の様々なリスクや為替変動によるコスト増加等で、産業の健全な発展が阻まれないように、輸出依存度を最小限とし、内需を中心として、新製品開発や国内販路拡大に注力してきた。また、生産技術向上や、設備投資及び省力化による多能工化により、新分野や新産業への展開が行えるよう、業界全体で力を尽くしたという。

2000年以降、金属ハウスウェア業界の製造体制として、特にASEAN諸国の海外生産比率が増加し、中国やマレーシアに生産工場を進出したり、米国での販売会社を設立したり、また韓国、中国、台湾で生産委託を行い、欧米や国内顧客への輸出を行う企業も増加した。こうした中で、金属ハウスウェア産業の国内生産は減少の一途をたどっており、中国、韓国、台湾からの輸入品が多くなっている。

 

燕の産業構造の特色として、各作業工程を支える零細企業群が、元請けを頂点にしてピラミッド型で存在するという点である。半製品が各工程に運ばれるため、結果的にランニングコストが上昇し、しかし重層構造故に下請け業者が少しずつ値引きに泣きながら深夜まで残業をこなして克服するということもあったという。

こうして洋食器業界やハウスウェア業界は、支え合い体制故に円高など数々の危機を乗切って来た。燕地域の弱点として、こうした伝統的な分業構造が温存されてきたことが挙げられる。例えば、顧客のコストダウン要求に対して、自ら国内で設備投資を行い、新しい技術革新を行って問題を解決する方法よりも、寧ろコスト削減のために、分業先を海外に求めたり、中国に生産拠点を移したりする選択を行う企業も多かった。長い目で見た時にこのような選択は、産地の衰退に繋がってしまうという議論もある。

 

また、燕地域ならではの問題点としては、特に近年において、大量生産に効率的に対応する為に、効率的な分業化や製造販売機能の分離、そして工程分業が行われた結果、産地の長所である加工ネットワークの緊密化が薄れてきたという。「何でも作れる」「誰かに頼める」という集積のメリットが、現在ではデメリットになりかねなくなっている。

現在、金属加工業の集積地である燕三条において、各企業が自社の強みを生かした事業ポートフォリオを有し、他社では決して真似のできない技術による、自社製品を生み出している企業もある。こうした集積のデメリットは、逆転の発想でこうした企業の長所と変わっている。こうした企業は、小規模ながらも、顧客ニーズに合わせた新製品開発や技術革新を行ってきた。その結果、高品質で機能的な各種金属製品を製造し、欧米諸国のほか、ASEANなど世界各国に輸出を行っている。

 

.グローバル市場を生き抜く燕企業の挑戦~金属加工集積地の利点を生かす

このように、和釘鍛冶をルーツとした金属加工産業発展の歴史の中で、燕市の基幹産業として、現在金属洋食器や金属ハウスウェア(卓上用品・台所用品中心)の産業集積が存在している。また、鎚起銅器などの金属加工技術の継承、そして応用を行うことにより、自動車部品や医療機器、精密機械部品、農業用機械など多岐にわたる産業分野で、金属加工技術を生かした製品、部品製造が行われている。また、燕市の産業集積には、金属加工に必要な基幹技術や表面処理技術として、伸銅・圧延、彫刻・彫金、研磨、鍍金(メッキ)、産業機械、プラスチック成型品等の企業が存在し、燕の金属加工産業を支えている。

燕市産業史料館では、燕の金属産業の歴史や変遷を見ることができる。ピーク時よりも産業規模は縮小したものの、今も日本を代表する金属洋食器の産地としての「燕」ブランドの知名度は高い。燕の金属加工の技術は、スマートデバイスの鏡面磨きや、デザイン性の高い製品開発にも生かされている。これまで歴史の荒波の中で、数々の試練に耐えながら、金属加工技術を発展、継承してきた燕企業の底力は、不確実性の高いこの時代だからこそ、その本領が発揮されるに違いない。

 

 

(参考文献)

渡辺行一(1966)「三条の歴史」野島出版

荒澤茂市(1997)「 燕市産業の起源と変革」㈱荒澤製作所発行

日本金属洋食器工業組合 (2011)『カトラリー検定公式テキスト なるほどカトラリー』