地域貢献活動
戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト
長崎被爆者・木戸季市さんへのインタビューをおこないました
戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトです。
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2019年3月12日に、長崎で被爆した木戸季市(すえいち)さんへのインタビューを行いました。木戸さんは現在は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の事務局長をなさっていらっしゃる方であります。
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昨年度の私たちの秋桜祭展示のタイトルは「被爆者に『なる』」だったわけですが、その報告をしたときに、「私も三度被爆者に『なっている』んだよ」と声をかけて下さったのが木戸さんであり、その時にオファーして以来、念願かなってのインタビューでした。
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木戸さんは5歳のときに被爆なさったのですが、ご自分の記憶と照らし合わせながら、当時の史料を多数ご覧になって、ご自分の体験を客観的にみようとしていらしたことがたいへんよく分かるお話しでした。特に、8人兄弟の末っ子であった木戸さんのお姉さんが、すでに結婚して鹿児島県出水にいた長姉にだした被爆直後の手紙には、木戸家の被爆状況が克明に記されていて、非常に価値のある歴史史料だと思いました。
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2㎞の地点で原爆の熱線の直撃を受けたお母さんと木戸さんが、顔などを激しく焼かれたにも関わらず、後から合流したお父さんが「みんな無事で良かった」とおっしゃったことが印象に残っているとのことであり、合流以前にお父さんがみた光景の凄まじさが想像できるとのお話しが印象的でした。
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木戸さんご自身も「自分は『幸運』な被爆であった」と語っていらしゃいました。もちろん被爆が「幸運」であったことはありえないのであり、それでも「幸運」と表現する木戸さんは、より爆心地に近い、人間の尊厳が保ちえなかった地域のことを今も学び、胸に刻み続けているのだろう、そしてそこにいた人々との対比で「幸運」とおっしゃるのだろうと感じました。とすると、私たちが木戸さんから学ばねばならないのは、木戸さんのさらに向こう側にあった世界への想像力になります。
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だからこそ木戸さんもまた意識的に被爆者に「なって」原爆を語り継ぎ、その責任を問い続けることを自らの責任として引き受け続けていらっしゃるのかと思いました。
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また私どものプロジェクトが気にしているのは、「あの日」の体験に加えて、その後の人生の歩みでありました。高校卒業後京都で学生生活を送った後、岐阜で大学の教員をながらくなさってきた木戸さんのお話はたいへん興味深く、予定された時間はあっという間に過ぎてしまいました。
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一番のメインでお聞きしたかった「三度被爆者になった話」はまた次回(5月中旬)に伺うことになりました。ちなみに木戸さんが「三度被爆者になった」というのは、一度目(1945年8月9日)、二度目(自分が被爆者だと知ったとき)、三度目(日本被団協に関係を持って被爆者運動に参加し始めたとき)を指すとのことでありまして、私たちのプロジェクトがこだわってきた「被爆者の歴史的形成」の論点にとって、非常に重要なお話しになるかと思っております。
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このプロジェクトでも何度かインタビューをしてきまして、時間をかけてお話しを伺うことの大切さがよく分かってきました。次回のインタビューをとても待ち遠しく思っております。
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木戸さん、ありがとうございました!またどうぞよろしくお願いいたします!!