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戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト

広島被爆者・岩佐幹三さんへのインタビューをおこないました!

プロジェクト担当教員の松田忍です。

2019年3月28日に、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会の資料整理室(港区愛宕)にて、同会代表理事であり、広島で被爆した岩佐幹三さんへの聞き取り調査を行いました。参加したのは4年生1名、2年生4名と松田に加え、継承する会の栗原さんでした。

岩佐さんは、昨年末に開かれた「被爆者の声を未来につなぐ公開ミーティング」で私たちが研究報告した際に、「君たちは原爆の地獄に触れた上で、研究を進めているのか?」との厳しいご批判をくださった方です。ご批判の声を受けて、公開ミーティング席上で2年生メンバー(当時は1年生)がすぐに聞き取り調査のアポを取り、今回の会が実現しました。

約2時間にわたっておこなった聞き取り調査では、最初は自由に語っていただいたところ、岩佐さんのお話は、日米開戦時からのお話しで始まりました。さまざまな想いが語られたインタビューは、到底数行でまとめられる内容ではなかったですが、印象に残った点を挙げてみます。

①日米開戦の瞬間に勤労動員されていた岩佐さんは、万歳と叫んで喜んだことを記憶していること。

②山本五十六聯合艦隊司令長官に対する尊敬の念が当時も今もあること。

③当時はよく分からなかったが、戦後になって歴史を勉強するなかで、太平洋線戦争後半に幕引きをできず、大きな被害を出した事への憤りが生まれたこと。

④中学生だった自分は「特攻」をしたいと思っていた一方で、「特攻」でイメージできることは、「航空母艦から飛び立つ瞬間」までであって、その先の実際に敵艦に突っ込むところは、イメージとしては「真っ白」で、想像してもいなかったことを、自分でも不思議に思うこと。

⑤原爆の爆風でつぶされた家の下敷きになったお母様と生死の別れをする瞬間に、「特攻をしてアメリカをやっつけるからね」と「妹をちゃんとお嫁にやるからね」の二つの約束をお母さんとしたこと。「特攻をすること」(死)と「生き残って妹をお嫁に出すこと」(生)の両方の約束を、自分がお母さんとしたことの意味について考え続けていること。

⑥「特攻」にこだわった理由は、もちろん「お国のために」の気持ちもあったが、心の奥底では、日露戦争時に陸軍大尉として参戦(戦死)したお祖父様の孫として生まれた自分が一介の兵士になれないとの想いや、身体が弱いので陸軍兵士としてはやっていけないのではないかとの不安もあったとのこと。

戦後に生まれた私たちは「戦争是か非か」のオール・オア・ナッシングで捉えがちですが、戦争体験者は足かけ4年にわたる長期間の「戦時」を過ごしたわけであり、そのなかで感じた様々な想いを込めての戦争認識なのであると深く理解できました。

岩佐さんご自身も「嘘はついていないが、私の話は決して『事実』ではない」とおっしゃっていました。戦後になって知ったことや改めて考えたことが色々交ざって、成立した「体験談」なのだと。

そうだとすれば、歴史学を学ぶ私たちがやらねばならないことは、岩佐さんの話をそのままの形で記憶することではないでしょう。岩佐さんの「体験談」が成立するプロセスを紐解くことによって、戦時・戦後の歴史認識をつくっていくことが学問としての歴史がなさねばならないことのように思いました。

岩佐さんは原爆投下当日の状況を被爆地周辺の地図を書きながら丁寧に説明して下さいました。

またご家族のお話もたくさん登場しました。たとえばお父様との思い出。

まだ太平洋戦争が始まる前に、父親と一緒に親戚の家にいくのが面倒くさくて、「勉強するから行かない」と理由を付けて、サボって遊んでいたところ、帰ってきたお父さんから言われた一言が一番こたえたとの話がありました。お父さんは岩佐さんを直接叱らず、ただ一言「お母さんが泣いているよ」とボソッとおっしゃったそうです。「いや~、これは叱られるよりもこたえたねぇ~~」とニコニコ笑いながらお話しになっていました。

こうしたお話しを含めて岩佐さんのお話しを伺うことで、聞き取り調査に初めて参加した学生が「被爆者も人間なんだと思った……」と感想を洩らしていたのが印象的でした。岩佐さんには大変失礼な話ですが、とても大事な感想だと思います。世界的に運動をおこなっている被爆者やメディアに登場する被爆者をみていると、被爆者を「どこか遠い世界で原爆の投下責任を問い続けている人」のように思うかもしれない。しかし実際に話してみると、私たちと同じような家庭があり、私たちと同じような喜怒哀楽があり、そのなかで考え判断し生きている。

被爆者に限らず、歴史のなかの人物が全て「人間である」ことを本当の意味で理解することは、歴史学の学びの第一歩であり、究極のダイバーシティ理解であると思います。

 

原爆により母親を亡くし、叔母さんと一緒に暮らすことになった岩佐さんの戦後の歩み、特に原爆の「被害者」から一歩進んで、被爆運動へと立ち上がっていくところのお話しは今回のインタビューでは時間的に聞き取ることができませんでした。学生たちは第2回インタビューを企画して、今度は「戦後の歩み」を伺おうとしています。