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【現代ビジネス研究所・研究助成金採択プロジェクト】燕三条地域の加工技術とグローバル優位性~産業集積を支えるものづくりのDNAを探る

【連載】燕三条地域の「ものづくりDNA」を探る~燕三条産業史を支える企業(第三回)

【燕三条ケーススタディ】

歴史の荒波を越えてグローバルに自社製品を展開する燕企業~株式会社青芳の事例[1]

 

昭和女子大学現代ビジネス研究所

研究員 根橋玲子

 

<企業概要> 株式会社青芳(https://www.aoyoshi.co.jp/

住所: 〒959-1276 新潟県燕市小池5143番地 資本金1,000万円

代表: 代表取締役社長 青柳 修次氏

事業内容: 生活雑貨・福祉用品の企画開発、製造、卸しおよび販売

従業員数:34人(2014年12月30日現在)

 

1955年に輸出用金属洋食器メーカーとして創業した株式会社青芳は、燕の地で、まさにグローバル企業として生を受けた。同社創業時には、主にステンレス製の金属洋食器製造からスタートしたが、現在はハウスウェアを中心とした生活雑貨にも枠を広げている。同社では、現在独自ブランドを中心としたオリジナル製品の企画開発、製造販売を行っているが、あくまでも同社商品はメーカーとして、「ものづくり」のDNAを重視しているという。顧客ニーズに基づき、時代の一歩先を行く商品を開発する。そして、機能、品質、価格すべてが顧客の希望を満たすことができるよう、他社にはない独自の商品を創造する、「創」という理念を企業モットーとし、顧客と長期的な信頼関係を結べる製品づくりを目指しているという。

創業以来、青芳は、「利用者の視点」を大事にして、使うたびに「小さな喜び」を感じられるような商品を開発し、企画、製造そして販売している。毎日使う身近な家庭用品の使い勝手や、デザインを重視して、あくまでも顧客目線に沿った製品開発を心掛けている。

 

同社の食器ブランドである「カジュアルプロダクト」シリーズは、ブランドコンセプトとして、「毎日使うものだからこそ、気に入ったものを選びたい」という、同社のライフスタイル提案をコアとして、家庭用雑貨にこだわりを持つ顧客ニーズに沿う製品開発を行っている。この「カジュアルプロダクト」シリーズは、現在は、全国の百貨店や雑貨専門店、ライフスタイルショップ等で販売してされている。また、コーヒー専門店用厨房器具やカクテルバーで使用する厨房製品等、特定の顧客にターゲットを絞ったカフェやレストランなどでも、同社製品が広く納入されているという。

また、同社が強みとする、「時代の一歩先を行く商品開発」や、「顧客ニーズに基づく商品製造」は、燕地域が、古代~中世~近代~と、自然災害や時の政府体制に翻弄されながらも、企業や人の力で生き抜いてきた歴史とも重ねあわせることができる。

 

高品質で、米国の消費者のニーズに合致した、燕の洋食器が、米国市場に広く受け入れられ、そして市場を席巻するようになった1955年4月、先代社長が「あおよし製作所」を創業し、輸出用金属洋食器のメーカーとしてスタートする。1957年8月に有限会社青芳が設立され、主に米国向けに、ステンレス製の金属洋食器の製造販売を行っていた。当時の廉価なステンレス鋼は錆が付きやすく、磨きも難しかったが、燕地域では、高品質の洋食器製造に必要となる研磨技術などが高度化していった。これが、のちに同社製品のイノベーションに繋がることとなる。

 

燕地域が、米国への輸出景気で活況を呈していた頃、米国政府は「対日金属洋食器輸入制限」を日本に通告し、1959年10月から年間輸入数量を取り決めた関税割当制度を実施した。これは、燕企業に市場を奪われた、米国洋食器メーカー業界団体の陳情によるものであった。その後、段階的に輸入制限が撤廃され、1967年(昭和42年)10月には、輸出が自由化されたが、それもつかの間で、3年後の1970年(昭和45年)9月に、再度米国業界からの圧力により、米国への輸入制限が通告されることとなった。当時は、輸入制限撤回交渉のため燕市長や業界代表10名が、陳情のため渡米したという。

その翌年1971年(昭和46年)8月の「ドルショック(ニクソンショック)」によるドル安傾向や米国側での10%の輸入課徴金徴収のためし、米国に輸出する際のコストがかさむようになった。さらに、1973年のオイルショックで、物価高騰による原材料の入手が困難になり、日本の産業界全体が大きなダメージを受けていた。1974年(昭和49年)には深刻な不況となり、実質成長率は0.2%と戦後最低となった。

 

その後、また段階的に輸入制限が解除され、1976年(昭和51年)9月には、2度目の米国関税割当制度廃止が決定され、1978年(昭和53年)6月に、米国大統領裁定により貿易自由化が決定し、洋食器の輸出が行えることとなった。この間23年に亘る、米国洋食器業界との戦いは、「燕」の産業集積を大きく疲弊させたが、一方で、「燕」企業を強く逞しくもしていった。同社は、先代社長のもと、金属洋食器をメインにしながらも、日本の消費者のライフスタイルの変化や、家庭における食の多様化を見据えて、金属ハウスウェアの製造にも着手していった。金属洋食器の輸出ルートを活用し、同社が製造した金属ハウスウェアは、順調に輸出を伸ばしていった。

しかしまた、同社に困難が襲い掛かった。1985年9月にG5により行われた「プラザ合意」である。これにより、為替相場は変動制となり、対ドル円レートは急速な円高となった。輸出用洋食器、金属ハウスウェアを生業としていた同社は、急激な円の変動が起きた結果、為替によるコスト割れで、採算の目途が立たず、やがて輸出が立ち行かなくなった。

 

同社先代社長と、二人の常務取締役は、この状況に憤りを感じながらも、強く前を向いて進んでいった。その結果、海外市場をメインに事業を行っていた同社は、その創業以来の経営方針を転換し、自社の強みを生かした独自ブランドを開発し、日本市場に打って出ることを決定した。

まさに、同社はプラザ合意による円高が輸出企業を直撃したその年、1985年より、内販用の生活雑貨の製造販売に業態を変え、さらに、同社のオリジナルブランドとして 「CASUAL PRODUCT®」(カジュアルプロダクト)シリーズの企画開発を行った。同社は、過去30年間、米国市場に受け入れられる輸出用ハウスウェアの製造販売を行ってきていたため、米国の消費スタイルを踏襲している日本の消費者には、米国市場ニーズに合わせた同社の商品コンセプトが新鮮に映り、広く好評を博した。

その当時は、こだわりの生活雑貨が購入できるのは、百貨店の家庭用品売り場のみであり、売り場にはヨーロッパからの輸入雑貨が棚の殆どを占めている状態であった。また、少しこだわった家庭用品を買いたいと思っても、他に買える場所はない時代であった。「カジュアルプロダクト」というブランドは、こうした生活雑貨も、洋服と同様に、自分の生活やライフスタイルに合わせて楽しんで選んで欲しいという思いから、名前が付けられたという。そして、品質も機能も良い生活雑貨を、日常品「カジュアルプロダクト」として使うことで、「毎日の生活に豊かさを感じてほしい」という、同社の思いが込められていた。

 

同地域の金属ハウスウェア産業の特長として、輸出主導型の洋食器産業とは異なり、輸出用と国内需要用が同時にあった。また、製品特性上、燕地域の金属ハウスウェア産業は、寧ろ内需型産業として発展してきており、円高に振れ輸出比率が減少しても、産業全体がシュリンクしないという特徴があった。一方で、金属ハウスウェア産業の輸出割合は、1970年代後半は30%、1980年代後半は20%、1990年代後半は10%前後に移行し、輸出割合が年々減少していった。 こうした中、顧客ニーズに寄り添いながら製品開発を行ってきた同社は、1990年より障がいを持つ消費者や、高齢者の方々のニーズに対応し、自分で食事を取るのが難しくなった消費者が、出来る限り介助なしで食事を摂る支援を行える介護食器の開発販売を開始した。

先代社長の青柳芳郎氏は、1991年10月に、三菱重工業と共同開発を行い、形状記憶ポリマーを使用した福祉食器「WILL」を開発した。また同年、福祉用品販売事業である「ウィルアシスト」ブランドを立ち上げると、障がい者だけでなく、全ての顧客に使い勝手の良い「ユニバーサルデザイン」を目指した、顧客目線の介護用品を開発し、製造販売を行うこととなった。

この斬新で画期的な、形状記憶ポリマーによる介護用食器「WILL」は、米国フィラデルフィア美術館主催の「日本のデザイン-1950年以来展」で選定、展示され、米国でも大きな話題となった。1996年には、同社が開発した福祉食器「WILL-3」がグッドデザイン賞「通産大臣賞」を受賞し、業界からも大きな注目を集めた。

 

1997年1月に、本社・工場を現在の所在地に新設し、さらに、1997年11月には物流を主体としたコンピュータシステムが導入された。また、燕三条地域では、古くからメーカーと商社の分業体制が構築されていたが、同社は1999年に、自社で直接貿易を行える体制を構築するために、いち早く貿易部を設け、貿易業務を開始した。

さらに、2008年7月には、WEB事業部を開設、自社のECサイトを開始し、顧客ニーズを直接反映させることを目的に、自社製品の通信販売事業にも尽力している。実際に、「CASUAL PRODUCT」のオフィシャルオンラインショップでは、消費者に対し、直接キッチン雑貨、テーブルウェアなどを提供しており、消費者の毎日の暮らしが楽しくなる商品を展開し、ライフスタイル提案を行っている。

2009年8月には、直営福祉用具アンテナショップ「Willassist」がオープンし、2009年10月に福祉用具事業部が再構築され事業部商標を「Willassist」とした。2009年には、同社の介護・福祉製品をブランディング化し、独自のオリジナルブランド「Willassist®」(ウィルアシスト)を立ち上げた。この「ウィルアシスト」のブランドコンセプトは、「福祉用品でより快適な暮らし」であり、「助けたい・手伝いたい」をモットーに、少子高齢化社会において、手助けを必要とする人、そして手助けをしたいと考える人に対して、必要とされる製品の企画開発と製造販売を行っている。同社が直営する介護用具アンテナショップは、日本海側最大の店舗スペース・最大の品数が揃っており、地域の方々に必要とされる介護用品店として運営されている。専門の相談員が福祉に関する相談に対応し、その場で購入やレンタルもできるという。

 

2012年1月には、中国ビジネスの拠点として、上海事務所が設立され、中国やASEANなど、海外でのライフスタイル提案にも強い意欲を燃やしている。2017年4月に、社名を「株式会社青芳製作所」から「株式会社青芳」に変更した。同社は国内外のメーカーとのネットワークにより製品の開発や製造を行っているが、「日本品質の物創り」を基準として、徹底した品質管理を行っている。また、ものづくりの地「燕三条」で半世紀以上にわたり、ものづくりに注力した同社でしか成しえない、高度な商品開発にも取り組んでいる。

 

青芳の製品として、全国の顧客から注目されているのが、同社の「ヴィンテージシリーズ」である。クラシカルで質の良い食器を日常使いとして使いたいという多くの消費者が、燕三条の確かな技術と同社の長年の経験から生まれた、このシリーズを愛用しているという。真新しいステンレス鋼を、ヴィンテージ加工することで、良く使い込まれた銀食器のような独特の風合いを表現している。その細部にまでこだわる雰囲気作りは、燕三条の熟練職人の技術と丁寧な仕事からしか成しえない逸品として、ヘビーユーザーを獲得している。また、銀食器は毎日磨くなどのケアが必要であるが、同社ヴィンテージシリーズは、手入れも簡単であり、日常使いができるため、共働きや介護などに忙しい家庭にも優しい。

青芳のヴィンテージシリーズは、1957年に苦心したステンレス鋼の磨き技術がコアとなって作り出された製品である。また、金属洋食器メーカーから発祥し、金物問屋向けBtoB製品として、そして生協や量販店を始めとした、生活雑貨の企画・製造委託・販売事業を展開してきた同社であったが、通信販売事業等により、直接顧客と繋がり、広くライフスタイル提案による価値創造を行う企業となった。同社の高い技術に裏付けられた斬新なアイディアによる製品の数々は、メディアにも多数取り上げられ、取材も後を絶たない。

 

「毎日使うものだから、気に入ったものを選びたい。毎日使うものだから、遊びごころも忘れない。」

 

青芳のキャッチコピーは、親族の介護を行いながら、米国との貿易摩擦や為替問題による「燕」の受難と激動の時代を生き抜いた、先代社長と現社長、そして社長を支える経営陣が発する言葉であるからこそ重く、そして深い。そして、ここから生み出される製品は世界の多くの消費者に、「その日一日を生きる」ことの大切さを実感させ、毎日の何気ない生活から生まれる、ささやかな「感動」により、顧客の人生に大きな豊かさを与えている。

 

写真1(左): 株式会社青芳ウィルアシスト・介護製品ショールーム(左から、筆者、秋元幸平同社取締役専務、根橋研究員、磯野教授)

 

 

 

写真2(下): 株式会社青芳 VINTAGEブランド

出所: 筆者撮影

 

[1] 2018年9月26日の株式会社青芳秋元幸平取締役専務へのインタビューによる。