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【現代ビジネス研究所・研究助成金採択プロジェクト】地域の加工技術とグローバル優位性(金沢の地場産業調査)

「金沢卯辰山工芸工房ヒアリング①ーなぜ金沢で工芸が根付き、広がっていったのかー

こんにちは。金沢プロジェクトの現代教養学科4年近藤菜々子(こんどう・ななこ)です。

11月17日(火)に続いて、11月18日(水)に「金沢卯辰山(うたつやま)工芸工房」でヒアリングを実施しました。参加者は引き続き、金沢工業大学産学連携室 大砂雅子先生、

現代教養学科4年 近藤菜々子、国際学科3年 黒保奈那です。

ご協力いただいたのは、金沢卯辰山工芸工房の館長を務められている川本敦久(かわもと・のぶひさ 1946年生まれ)さん、現在工房で研修を受けられている中田真裕(なかた・まゆ)さん、郭 宜瑄 (カク ギセン)さんです。

当日は、まず工房内の資料室を見学させていただいた後、川本さんから卯辰山工芸工房と金沢の伝統工芸についてお話しいただき、最後に研修者の方々へヒアリングを行いました。

現在金沢卯辰山工芸工房の館長を務めている川本さんも、工芸に密接に関わってきた方です。京都のご出身で、金沢美術工芸大学で学ばれたのち、大阪のテキスタイルデザイン事務所で勤務されました。その後、金沢美術工芸大学の教員を経て卯辰山工芸工房の館長を務められています。

(個別に「金沢卯辰山工芸工房」での視察や受験の下見などを希望する場合は、工房のウェブサイト<https://www.utatsu-kogei.gr.jp/>記載の連絡先へのご連絡が必要となります。通常の視察では、研修者の方々にインタビューを行うことはできませんのでご注意ください。)

 

今回①では、現在の石川県や金沢の工芸を語るうえで欠かせない歴史をご紹介させていただきます。

 

1.城下町統一を経て反映した工芸

加賀藩主前田家の祖・前田利家(まえだ・としいえ)は、金沢の城下町を形成させるためには「町を統一させ、外敵から守る必要がある」としました。そこで、外敵から城下を守ることと、家臣団の統制を行うため「加賀藩御細工所(かがはんおさいくしょ)」:武器管理や手工業のための機関及び工房)」が造られました。江戸時代初期に成立してから、明治元年に廃止となるまで続きました。当初は、武具類の管理と修理補充が主な任務でしたが、その間に培われた高度な工芸技術により、質の高い加賀象嵌や蒔絵などの美術工芸品を生み出しました。

 

加賀藩は「加賀百万石」と言われ、徳川家に勝る財力を持っていました。そんな加賀藩の工芸は、「使う」ことと「鑑賞」すること両方を兼ね備え、美意識を必要とし、それを継承するという意識が持たれていました。よりグレードアップした工芸を創るため、全国から一流の職人を集め、指導させました。これは何代にも渡って受け継がれました。当時「細工者(さいくもの)」の待遇は武士と同等で、御家人よりもが高くなっており、中でも京都・江戸などから招聘(しょうへい)されてきた職人や文化人には、邸地(やしきち)・銀数十枚・10人の扶持(ふち:米などを支給して家来や奉公人を抱え置くこと)が与えられました。

 

加賀藩の工芸の完成期には、加賀藩前田家5代藩主前田綱紀(まえだ・つなのり)によって元禄文化の継承保存のために全国の工芸の見本を収集しました。それが「百工比照(ひゃくこうひしょう)」です。総点数は2000点余りに上り、紙・漆・木・革・染・織・竹・象牙(ぞうげ)・金属・真珠・瑠璃・琥珀などの多様な材料で制作された工芸品の技術見本や、釘一本という小さなものも集められました。

 

2.文治政策ののち、工芸に反映された「能」と「茶の湯」

「家臣団の統制」を行う際、加賀藩は文治政策(武力を使わず、教育や法律による統治)に臨みました。そして、全国から一流の文化人・名工を集め、「工芸」を「文化」として繁栄させようと取り組みました。そこで、「茶の湯」「能楽」「連歌」を趣味共有させることにより人と人とが心でつながることで城下町を形成していきました。

 

1686年前田綱紀は徳川綱吉から能の上覧を望まれ、それ以降綱紀は、御細工所に「地謡」(じうたい:能で、謡曲の地の文の部分を大勢で謡う)、拍子方、御装束(しょうぞく)仕立てなどを命じ、細工者は能を「兼芸」にするようになりました。当時能は武士のたしなみの最上位でもあり、細工者は「美意識・表現」を工芸に反映させていました。

 

茶の湯の広まりは、多くの影響をもたらしました。かつての静かに行われる茶道から一変し、部屋に大勢の人を集めて行う茶道へと変化しました。中でも「お茶道具拝見」を通して、共通の美意識や知識が蓄積されたり、触発されたり人々が心のつながりを強めていきました。この結果、茶道具(工芸)が流行し、売れるようになりました。

 

これらの歴史については川本館長さんがヒアリング内容に入る前に、ぜひ知ってほしいと資料付きで解説してくださいました。特に「兼芸」に関しては、工芸で良い感性を発揮するために行われていたと初めて知りました。多様なことを吸収する力が当時から求められていたのですね。次回は「金沢卯辰山工芸工房」の取り組みにスポットを当ててご紹介します。

現代教養学科4年 近藤菜々子