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被爆者インタビュー(岩佐幹三氏)

2019年9月21日に船橋勤労市民センター第2会議室にて、岩佐幹三さんへの聞き取り調査を行いました。

岩佐さんは広島の原爆でお母様と妹さんを失い、家の下敷きになったお母様を助けられなかったことへの想いや、いくら探し回っても妹さんを見つけることができなかったときの想いを抱えて、被爆者運動をなさっていらしたかたです。

今回さまざまな事前準備をした上で、インタビューに臨みましたが、もう90歳を越えていらっしゃる岩佐さんですが、資料と照らし合わせてもご記憶は確かであることに驚きました。

今回は岩佐さんが金沢大学法文学部にお勤めになっていらした時期に、石川県の原水爆被災者友の会会長(1960年~1992年)として活動なさったときのお話しを中心に伺いました。

はじめて被爆者として行動したのはストックホルムアピールへの署名だったが、最初はGHQのMPに目を付けられるのではないかと怖かったこと、第1回原水禁大会に参加したときに、まだ被爆の実相などなにも分かっていない時期だが「核をなくそう」との気持ちだけでつながっていたことに感銘を受けたこと。また自分としては「母と妹の死を悔しいと思う気持ちがあり、私たちのような人間をつくっちゃいけない」との気持ちがあったことなどを話して下さいました。

また友の会をつくるきっかけとなったのは、自分が被爆者健康手帳を取得したときに「被爆者同士つながらないと手帳を取った意味がない」と思ったとのお話しも印象的でした。友の会の活動といっても、運動というよりも、被爆者同士がつながりあうことに意味があると考えていて、やっていたのは署名や募金などであったとのことでした。

ただ石川県の代表として日本被団協の東京事務所でさまざまな会議に出席なさったときの活動をうかがう中で、岩佐さんが1980年代の被爆者運動のキーマンであったとの確証をプロジェクトメンバーは感じました。岩佐さんご自身は「私はなにもやってないよ、みんながやったこと」と何度もおっしゃっていましたが、1980年に基本懇答申があり、被爆者調査を実行し、被爆者の基本要求をつくり、死没者に対する運動を進める中で、岩佐さんのお名前はなんども史料に登場しますし、特に専門委員としてのご活動や被爆者調査特別委員会委員長としてのご活動が大きいように思いました。

 

また岩佐さんのお話を伺っていると、さまざまな葛藤や矛盾を抱えながら、今も岩佐さんが考え続けていることがよく分かりました。一瞬で世の中を変えてしまう原爆は、通常兵器とは違う「特別な被害」を与えるのだとの思いがありつつ、一方で戦争被害一般に対する補償が必要だとの想いも抱いていらっしゃいます。また真珠湾攻撃の時には「万歳」をして大喜びした当時の岩佐さんと、戦争は間違っていたのかどうかを考える今の岩佐さんの想いもあります。

「答え」ではなく、さまざまな「問い」に触れられるのは、こうした聞き取り調査ならではのことだなと思いました。

岩佐さん、本当にありがとうございました!

是非岩佐さんのご自宅にあるという岩佐幹三関連文書の整理もやらせてください!!!